雨よりももっと 1
「あー、どしゃ降りだよー」
空。―天蓋には灰色の雨雲が張り付いていた。…が、その陰鬱な雲は、自身の限界近くまで溜め込んだその湿気を、満面に湛えている緊張感、それ以外のものを決して降らせているわけではなく。
「雨なんて降ってないじゃん」
宙に手を伸ばす。座り込んだまま。でも、雨粒は拾えない。
「…ばーか」
少しビブラートのかかった甘い声。湿気を含んだ夜の空気を振動させて、届く。僕の鼓膜を通り抜けて。
「あたしの心があめどしゃ降りなのさー」
そういって、少女は細くて白い、可憐な四肢を、ぴん、と伸ばし、気だるそうにこの廃ビルの屋上に仰向けに寝転んだ。倒れるように。張り詰めた吐息を吐くように。その閉じた目は、彼女の均整の取れた顔に奇麗に納まっていて。喋りすぎて、少し紅潮した頬は、撫でられるのを待っているかのようで。制服の、心無しか濡れたブラウスのすき間からのぞく胸元をつい注視してしまう。りんごのように色づいた、透き通った白い肌。血の色がすぐに浮き上がる。つややかに、その奥のかたい蕾のような膨らみへと続いていく。熱く上気した息遣いが… でも、こんなのは卑怯だ。
僕は、顔を背け、周りの、灯りの気配すらないビル群を眺めた。窓は暗く、打ちっぱなしのコンクリートにはひび割れのような黒い染みが、設計当初から予定されていたかのように入っている。歪んでいて、奇麗だっ―――
「ねぇ」
雷鳴。
「何?」
「今日は、あたしを見てくんないんだね」
「どういう意味だよ」
「べつにー」
ゆるやかなリズム。彼女の話し方は甘ったるい。稚児のような匂い。体勢を維持しているのが耐えられなくなって、僕も仰向けに倒れる。彼女の方に顔を向ける。抜けるような色の白さと興奮した頬のコントラスト。美しく整った顔立ち。その奥の、僕を見つめる黒く、透き通った瞳は、少し潤んでいる。気がつけば彼女の無遠慮な息遣いが、鎖骨に感じられる距離で。息が顔に当たるたびに体の奥が、きゅっ、と締め付けられるようで、そのたびにはっ、と目が覚める。
「ねぇ」
艶やかな黒髪が、彼女の厚い唇にかかる。
「何だよ」
「まったく、不公平だよね」
「君には、いろんな人がいるのに、」
「あたしには、君しかいない」
「そんなの、どうかんがえたって不公平じゃないか」
彼女は空に目を向けた。瞳に湛えたものを零さぬかのように。
…雨粒が、しとり、と、夜のとばりから滴り落ちて来た。