ぱらいそはいずこ

ぼくに言わせりゃ、いまの演劇なんて固定観念と既成概念のアンソロジーさ。幕があがると、いつも夕暮れどきって決まってるんでね。そこに芸術の聖堂を司る聖なる名優たちが現われ、人間はいかに飲み食いし、いかに愛し、いかに歩き、いかに服を着るか、演じて見せてくださるんだ。するとその俗悪な場面や陳腐なセリフから、観客はなんとかして教訓を引き出そうとする――くだらない、安直な、家庭生活でお役に立ちそうな教訓をね――見た目に装いは変わっても、中身は同じ、同じ、同じひとつのことの繰り返し――それを見るとぼくは逃げ出すんだ、振り返りもせずに。

チェーホフ『かもめ』, トレープレフの科白

 広大なウェブ上に書き散らかされた、『うそのない』ように見えるくだらない毎日を書き綴った文章を読むとき、僕達が感じるのは、その人の息遣いであり、人となりであり、またその人そのものだ。私たちは、その文章と言うプリズムを通して彼らを見る。脳内劇場で、彼らを再生してる。そういうシステムがすでにできあがっている。まるで、電話を媒介して何マイルも離れた相手と意思を疎通し、相手を身近に感じることができるように。
 あたりまえのことだと思うだろう?だけど、これはたぶん画期的なことなんだ。僕達は、いまや自分の言葉が活字になり、TrueTypeのフォントに置き換わり、ディスプレイに表示されることに違和感を抱かない。むかしのロシアの詩人達は、自分の息子にも等しい自らの作品に活字という囚人服を着せる印象派の詩人たちを指して「先天的盲目」と呼んだ。これはある意味であたっているが、コミュニケーションの疎通に不可欠なものなんだ。ほんとうは、僕達が個々抱くイメージは僕達自身の脳に固有のもので、共有なんかできない個性のはずなんだ。だけど、僕らは言葉を介してそれを共有する。共有した気になる。僕らは、現在の言語システムに違和感を抱かない――つまり、そこを半意図的に無視し、言葉というプロトコルに無条件に脳のポートを開放しているからこそ、コミュニケーションできるんだと思う。
 そして、そういう意図的な個性の無視は進化して、ウェブ上の文章から相手をイメージできるまでに至った。ウェブ上の文章が、頭の中で現実として再生されることに違和感を抱かない。僕らは、良く出来たSF小説を読むときも、私小説を読むときも、ペーパーバックを読むときも、たぶん、そのストーリーはどこか虚構のものだと、ノンフィクションでも、いつかは現実であったけれど、今は現実でないものだと思って読んでしまう。だけど、ウェブ上の文章はそうでない。下手したら、音声言語の意思疎通のように、現在進行中の現実だとすら思いながら文章を読む。
 これは、最大のリアリティの実現なんじゃないのかな?
 一種の「釣り」みたいなものだけど、僕らは、いまや虚構をすらほんとうに現実のものとして扱うことが、現実のものにすることができるのかもしれない。そしてそれは、たぶん、何十世紀もかかっても僕らが到達しえなかった境地なのかもしれません。
 様々な創作のいくつかは、いまや既に僕らの中で、無意識のうちに、現実の像を結んでいる。少なくとも、現実というタグが付けられているんだと思う。ここは、もはや現実が支配する場所ではない。たぶん、そう、新しい電脳空間は、創作者にとって、新たなフロンティア、ぱらいそなんだと思う。