あんまり意味のないエントリ

  • 「健常者」は、学歴、社会的地位、読んだ本をさりげなくほのめかす障害者が嫌い。まるでなんの本も読んだことがないかのように、日常の言葉だけで、なにげなく「健常者」の気持ちに届く言葉を放つ健常者が好き。
  • 「健常者」は、それとなく余裕をアピールする障害者は嫌い。本当に余裕があり、余裕が自然とにじみ出てくる障害者は好き。
  • 「健常者」は、金持ちでも貧乏くさい障害者は嫌い。貧乏でも気前のいい障害者が好き。

(一部適当に抜粋)
「健常者」に好かれるための基本原則 - umeten's blog

元エントリも反吐がでるくらい真実だったんだけど、
このエントリもほんとに反吐がでるくらい真実だ。


↑ずっと前にこんなエントリを書こうとしてたのがバックアップで残っていた。
いま読んでも気持ちのいいものじゃないけど、なんていうのかな、やっぱりそういう明示されない意識は僕らの生活を、鎖のように縛っている気がする。そして、普通ではない人たちの生き方すらも、これを読んで反吐が出そうだと、表層ではいってる僕らの深層心理こそが縛っているんだと思う。バリアフリー? 障害者に対する配慮? ふざけんなよ、彼らは障害者である前に人間なんだろうが。そして、お前も、俺も、ある意味では異端児であり、障害者なんだ。だけど、俺達はやっぱり人間なんだよ。ただの人間だけど、ただの人間ではあるんだ、キチガイで、障害者で、前科者である前に。そんなことが書きたかった。


けれど、今一番書きたいのはなにかって言えば、The Smashing PumpkinsのLunaが頭の中に流れて止まらないってことだ。

この一週間、東京行ったり奈良帰ったりを3セットぐらい繰り返すなかで、ブラッドベリ火星年代記を新幹線や夜行バスでちまちま読みながらずっとこの曲が流れていた。
僕は、自分の子供に、どんな歌を歌えるんだろうか。


僕は、子供がどんな子供であっても、ブルースをガチャガチャやってうざがられて、童話みたいな話をして、外に連れ出して、数学者の話なんかをして、SFの話なんかをさも真実のように話して、騙して、ネタばらしして、吉野川とかのキャンプとかで水飲まして腹壊させて、それでも子供の聞いてくる質問なんかには答えにくくても真摯に答えて、自分のいたいところとかあんまり知らないところをはぐらかして、それを子供につっこまれて、ちくしょーって言いながらまた調べてリベンジして得意げに説明して、そのころには「それなんのはなしー?」とか言われるような、そんな親になりたい。


人間は完璧じゃないけど、より良いものになろうという努力だけは尊いと俺は思うので、自分のガキにはたぶん「この親父は若干ばかだ」ということをまず教えて、自立心の萌芽としたい。そんなもんでいいんじゃないかなぁ、とか思う。
最近の教育は、正直見ててきもい:なんかヤなんだ。科学という意味からも、人間的な自立という意味からも、外れてしまってる気がする。僕たちは、生物であるがために、生物学的な方法でDNAを残すけれど、僕らはまた人間なので、生物学的な方法以外でも遺伝情報を残してゆけるんだと思う。たぶん、高校や大学で学ぶような歴史や、数学や、芸術や、文学や、科学や、そういったものは、結局「現実」の微分(それも、むりやりに近似して出したようなもの)でしかなくて、たとえばキュビズムやシュプレマティズムの絵が歴史的文脈無しでは瓦解してしまうように、黒人の一世紀前のブルースはあの時代とあの時代の空気を共有した者でしか本当には理解・共感しえないように、「現実」の数多のヘパイストスやキュプロクス達が組み上げてきた現代の科学や、生者と死者が己の人生を投じ、ともに渾然一体となって一点に収束した、そのどろどろとした歴史というケイオスには、決して及ばない。それなのに、僕らはいくつかの教科書や、文献や、wikipediaを読んで、わかったふりをしている。なんだか、それらに対する敬意すら、いつの間にか薄れてしまった気がして、僕はどうにもやりきれない。
その中で、ほんとうに、僕は、そして僕たちは、どんな歌を、どんなものを、こどもに伝えていけるんだろうか。考えなければいけないなぁ、と思った。


現況

酒でべろんべろんです。ラーメン二郎を初食、しかも完食した。胃がもやしでもっちりしていてとても気分わりい。
しかし東京は、人おおくてしんどいなー。

ブッカ・ホワイト

なんでこんなかっこいいんだろうねぇ??
最近、ブラウザ開くたびに見てる。

僕はブルースが好きです。とくに、ふるいやつの、オープンチューニングのギターでかき鳴らしてがなってるようなやつが大好きです。でも、こういったものを聞く時、本当には好きなんだろうか、と考えて、ほぼ毎回疑問を感じてしまう僕がいます。結論としては、少なくとも、僕にはこういう音楽のかっこよさを本当には語ることはできない。たぶんこれは僕の嗜好であって、血ではないからだと思う。血っていうとなんだかかっこいい響きだけれど。

僕は、音楽は一種の言語であると思います。物理的・肉体的器具を用いた言語の拡張です。各言語の特異性と、その土地土地の音楽の特異性はよく似ています。ワレワレの日本語は、ひどく抽象的で、どの部分でも、あまつさえ主語ですら、カットアンドペースト可能です。だからこそ、ワレワレ固有の音楽も、ひどく抽象的で、個人的な側面を持っていると思います。そんなワレワレにとって、黒人音楽って、ひどくかっこいいんだけど、やっぱり異文化でしかないと思うのですよ。

ブルースやそういった外国の音楽をひどく物知り顔で語るひとがいますが、あれはほんとにわかってるのかな、と僕はそういう人を見るたび思います。私たちは軽易に経緯を知ることができるし、それに対して敬意を抱くこともできるけれど、やっぱりその根底にあるもの:言語と、それがもたらす思考と嗜好の特異性を理解することはやっぱりできないんだと思います。かっこよさはわかるけれど。日本人であるところのワレワレには、そんな文化を十把ひとからげに得意げに語るよーな資格はないんだと僕は思います。

アレンジは、できると思いますが。もっと、ワレワレは、日本人であることを誇ってもいいと思います。決して愛国主義国粋主義っていう意味じゃあないですが。文化の多様性の尊重、という意味で、です。僕らに見えないものが、理解できないものが存在するということは、たぶん、僕らだけがきちんと見えるもの、すくなくとも、僕らにはよりよく見える美しさや、趣のあるものなどが存在するかもしれないことを暗示しているようにも思います。

なんていうのかな、ワレワレは、つうか、なによりも僕は、外部を肯定しすぎ、自分を棄てすぎだと思うのです。他人ばっかり見ても、それはやっぱりコピーにしかならんよ。でも、なんていうのかなぁ、ブッカ・ホワイトは本当にかっこええな。

ぱらいそはいずこ

ぼくに言わせりゃ、いまの演劇なんて固定観念と既成概念のアンソロジーさ。幕があがると、いつも夕暮れどきって決まってるんでね。そこに芸術の聖堂を司る聖なる名優たちが現われ、人間はいかに飲み食いし、いかに愛し、いかに歩き、いかに服を着るか、演じて見せてくださるんだ。するとその俗悪な場面や陳腐なセリフから、観客はなんとかして教訓を引き出そうとする――くだらない、安直な、家庭生活でお役に立ちそうな教訓をね――見た目に装いは変わっても、中身は同じ、同じ、同じひとつのことの繰り返し――それを見るとぼくは逃げ出すんだ、振り返りもせずに。

チェーホフ『かもめ』, トレープレフの科白

 広大なウェブ上に書き散らかされた、『うそのない』ように見えるくだらない毎日を書き綴った文章を読むとき、僕達が感じるのは、その人の息遣いであり、人となりであり、またその人そのものだ。私たちは、その文章と言うプリズムを通して彼らを見る。脳内劇場で、彼らを再生してる。そういうシステムがすでにできあがっている。まるで、電話を媒介して何マイルも離れた相手と意思を疎通し、相手を身近に感じることができるように。
 あたりまえのことだと思うだろう?だけど、これはたぶん画期的なことなんだ。僕達は、いまや自分の言葉が活字になり、TrueTypeのフォントに置き換わり、ディスプレイに表示されることに違和感を抱かない。むかしのロシアの詩人達は、自分の息子にも等しい自らの作品に活字という囚人服を着せる印象派の詩人たちを指して「先天的盲目」と呼んだ。これはある意味であたっているが、コミュニケーションの疎通に不可欠なものなんだ。ほんとうは、僕達が個々抱くイメージは僕達自身の脳に固有のもので、共有なんかできない個性のはずなんだ。だけど、僕らは言葉を介してそれを共有する。共有した気になる。僕らは、現在の言語システムに違和感を抱かない――つまり、そこを半意図的に無視し、言葉というプロトコルに無条件に脳のポートを開放しているからこそ、コミュニケーションできるんだと思う。
 そして、そういう意図的な個性の無視は進化して、ウェブ上の文章から相手をイメージできるまでに至った。ウェブ上の文章が、頭の中で現実として再生されることに違和感を抱かない。僕らは、良く出来たSF小説を読むときも、私小説を読むときも、ペーパーバックを読むときも、たぶん、そのストーリーはどこか虚構のものだと、ノンフィクションでも、いつかは現実であったけれど、今は現実でないものだと思って読んでしまう。だけど、ウェブ上の文章はそうでない。下手したら、音声言語の意思疎通のように、現在進行中の現実だとすら思いながら文章を読む。
 これは、最大のリアリティの実現なんじゃないのかな?
 一種の「釣り」みたいなものだけど、僕らは、いまや虚構をすらほんとうに現実のものとして扱うことが、現実のものにすることができるのかもしれない。そしてそれは、たぶん、何十世紀もかかっても僕らが到達しえなかった境地なのかもしれません。
 様々な創作のいくつかは、いまや既に僕らの中で、無意識のうちに、現実の像を結んでいる。少なくとも、現実というタグが付けられているんだと思う。ここは、もはや現実が支配する場所ではない。たぶん、そう、新しい電脳空間は、創作者にとって、新たなフロンティア、ぱらいそなんだと思う。

『細切れのお笑い』が示すもの

――では、つまらない番組は。
横澤 どの番組が、ではなく傾向として2点不満がある。1つは似たような番組が
多すぎる。もう1つはお笑いを細切れに扱い過ぎている。1点目は、視聴率が高い他局
番組を安易に真似しているということ。自分たちが番組をつくっていた時は、いかに
他人と違うことをやるか、少しでも違う点を出したい、とやってきた。とても大変だし、
当たるかどうかバクチみたいな所もある訳だけど、そうした苦労をするエネルギーが
欠けている気もする。
痛いニュース「お笑い」つまらなくなったワケ

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ファック文芸部

に参加しました。時期はずれな感もありますが。


slimo the fatter
http://neo.g.hatena.ne.jp/slimo/
で、いくつか短編かいてます。
白雪姫のやつ書いた。テーマ、割と練ったんだけど、ちゃんと読み取れるかどうかは不明な荒削りっぷり

乞食と唾

 朝起きると空気がすげぇ酒臭くて、これが自分の息だと気付くまでには少しばかりの時間を要した。あたまがくらくらする/昨日飲みすぎた/ぐらついて灰皿を踏み付けた。畳がおれの肺のように真っ黒になった。
先週から気管支の調子が悪くて、満足に眠れない。その過程での昨日の酒/不意打ち。悪酔い、泥酔。あいつは無事帰っただろうか。喉の奥が乾いてひび割れている。出ない吐泥をおええと吐きながら起き上がり、朝食の準備をする。
幸い、まだ出るまでには時間があったので、コーヒーを入れることにした。冷凍庫から豆を取り出して挽く。古臭い手回しのミルから豆の甘い匂いが立ち上る。その香りを楽しむ……ことが今日はどうにもできず、僕はまた嘔吐した。だが、ひどい臭いの胃液以外何も出ない。そのまま、二、三度咳込んだ。涙目になりながら、おれはミルを回すのをやめた。

 椅子に座り、ぜいぜいという呼吸を落ち着けているとき、ふと、昨日見た、浮浪者の中年男を思い出した。飲みすぎたあとの帰り道で見た彼だ。彼は、段ボールを体に巻き付け、冬の気温のまだ抜けぬ四月の寒夜を乗り切ろうとしていた。日に焼けた野卑な顔、垢のこびりついた首筋、黄色く変色した歯茎。髪の毛と同様、縺れてびりびりに破けた煤だらけの服で、公園のベンチに寝転がっていた。
おれは、ただただ公園でぼけっとタバコを酔い覚ましに吸いたかっただけだったので、彼が隣のベンチを占領していたことに腹を立ててはいたが、なんというか、そんなに彼のことを気にしていたわけではなかった。同僚はどこかいらいらしていたようで、幾度か彼に卑しい言葉を吐いた。彼は、気にもとめず……いや、実際は留めていたのかもしれないが、ごろりと上を向いて、目を瞑っていただけだった。僕もすこしづついらいらしはじめた。じぃっと、彼の段ボールの家をおれは睨んだ。その、粗末な小屋とも呼べぬ代物から、その浮浪者が、どこかで見たことのある本を取り出すまでは。

 ぐらつく記憶の底にこびりついたその本は、大学時代おれが熱心に読んでいた本で、無限に関してのやつ、カントールの超限集合論だったように思う。おれはあのころ数理論理学を必死になって学ぼうとしていて、――なにかがそこから得られるんじゃないか、そこから得られた知見が僕の人生にきっちりと食い込んでくれるんじゃないか、とかそんなことを考えていた。上手くいえないんだが、この不確定で不健全なこの世界のシステムを統べるルールがあれば、そしてそれを理解すれば、人生の羅針盤を得られるんじゃないか、とかいった子供じみた思いだった。そして、たぶんそれは幻想だった。なんだかんだ言いながらおれ達は皆人生のどこかのフェイズで普通に就職して、普通に仕事して毎日を送る。ただそんだけなんだ。その毎日は何も変わりはしないし、皆と違う生活を送っているわけでもない。

 とにかく、その乞食は彼の粗末な、ふやけた段ボールの家からカントールの本を取り出したんだ。ひどく大事そうにそれを抱えて――本は、幾度もそうやって取り出されたようで、角が円くなり、ハードカバーがぼろぼろになっていたが――公園の仄暗い電灯を頼りに読み出した。おれの酔っ払った目は彼に釘付けになったのを覚えている。段ボールの中の暗がりに目を凝らせば、そこにはいくつものハードカバーが転がっていた。洋書もいくつかあった。ラッセルとホワイトヘッドなんかのあの分厚い本が見えたような気もする。同僚はやっぱりひどく酔っていたので、ぐだぐだと軽蔑の言葉を乞食のおっさんに吐いていた。だが、俺にはもうそんな言葉は耳に入らなかった。

 おっさんは、熱中して何度も何度もページを戻りながら、カントールを読んでいた。最初、おれにはなんだかこのおっさんが哀れに思えてならなかった。このおっさんはどこかで失敗したんだろうか。それとも、これがあのポスドクとか言うやつの末路か。社会の需要から切り捨てられたおっさんの姿か。そう思った。幾度か同僚がおれに同意を求めてきたので適当におれは頷いてやった。社会の歯車に成りえなかった男の姿はどこか哀れで、おれは次第にいらいらいらいらして、急にこの乞食のおっさんの顔に唾を吐きかけたい気持ちになった。

 だが、その時だ。そう、そう思った瞬間だったと思う。おっさんに唾を吐いた瞬間を妄想したときに、おれは気づいた。おれは、おれは、いつのまに、唾を吐きかける側になったんだろう? おれは、今まで、思い返せば、唾を吐きかけられる側にいることが多かった。少なくとも、誰か見も知らぬ他人に評価され肯定され否定された挙句唾を吐かれることも可能な位置におれはいた。学生の間は言うに及ばず、就職活動、就職しても人事に。唾を吐いた時点でおれの負けは決定していたようなものだったじゃないか。そのおれが、今、この乞食のおっさんに唾を吐こうとしている? 少なくとも、あのとき、おれにはそれが可能だった。だれかがだれかに唾を吐くことができる、これはいったいどういうことなんだろう? 

 結局、おれは、途端にばからしくなり、テンションが異常になっていた同僚をなだめて帰った。同僚はなにか殴るものが欲しかっただけなんだと思う。帰りに電信柱をがつんと殴って右拳から血を流していた。そこからは、あまり記憶がなくて、どうやって帰ったかも定かではなくて、気が付いたら布団の中だった。


 本棚近くの床に読んだこともない本がいくつも溜まっていた。今日帰ったらまずそれから読んでいくか、そう決めた。

生きているのがめんどうだ

 まったくなんてやつだ人生は。結局勝ち馬に乗ったやつが勝つゲームじゃねえか。僕は今日も布団にくるまってそう呟いた。だから成功するか、しないかどうかなんてただの確率ゲームにしかすぎないんだ。だから……だから、っていっちゃおかしいんだろうけど、僕はここから動かなくてもいいんだ。動いたってどうせおなじなんだから。布団のなかはとてもあたたかで、やわらかくて、僕の汗の臭いがする。もういい加減干さなきゃだめだろう。しかもそろそろ布団を薄くしなきゃならない季節だ。面倒すぎて気がめいる。時間なんか止まっちまえばいいのに。
携帯のメールを見る。
 新着メールは来ていない。就活で出合った岡山の女の子と先ほどまでメールをしていた。しかし、もう返ってこなくなった。だいたいからして口説く気がまんまんに満ち満ちたメールを返してくるほど今の女子は暇ではない。ま、今までがラッキーだったということで。
とりあえず言い訳をして、僕はテレビの電源を入れた。DVDの電源もつけて、いつものようにCUBEの映画を見る。もう何回も見ているから、内容は諳んじている。僕はこの映画が好きだ。現在の社会で生きている僕らの人生はこの映画と同じような状況だと思う。その中であがく彼らを見るのが好きだ。そして、どうにもならない結末だからこそ、余計リアルだ。
 淡々と進む映画を見ていると、いつも僕は自分が皮肉屋で、動きたがらない登場人物、ワースになったような気分になる。こいつの気持ちがすごくよくわかる。初めて見たときはすごくいらいらした。知識持ってんだから動けよ馬鹿、と言いたい気分にもなった。しかし、バカでっかいCUBEみたいなこの社会では、こいつの立ち位置が一番楽なんだ。誰にも迷惑をかけない確率が高いからだ。女の子に後ろから笑われることもない。グループディスカッションで誰かの足をひっぱることも、ひっぱられることもない。だから役員面接で緊張と圧迫でボロクソに評価されることだってない。学校で「イラっとする」と陰口を叩かれ、うざいやつという烙印を押されることもない。布団は本当に暖かい。
 携帯の自分のメールを確認する。
 未練がましいやつだな、と自分でも笑う。メールのタイトルをちゃんと消せているかを確認する。ふと、昔の彼女を思い出す。Re:とかついてると何故か怒り出したっけな。僕にはいまだになんで消さなきゃいけないのかわからない。本文を読んでいると、つとめてやる気をださないようにしている僕の努力がよく見て取れた。たしか考えたテキストの量はこの三倍にはくだらないと思う。書いては消し、書いては消しでようやくできたこの結晶には、やっぱり不備が残っていた。東京に出てきたら云々、って書いちゃった。ダメねー、あたし。こうなっちゃうとだめね。
岡山の女子から送られてきたメールを見る。絵文字がとても可愛い。実際はもっと端正な顔をしているのに。じゃけん、とか時々標準語のガードからすりぬけて出てくるそんな言葉のイントネーションにすごく悶えさせられた。でも、そのあとの恥ずかしい表情がもっと可愛いんだ。だけど、メールはもう返ってこない。
 きめぇな、自分…
 自分で呟いた。画面では、クエンティンが独善性を発揮している。いいぞ、もっとやれ。お前みたいなのがいてこそ世界は回るんだ。セリフを口パクと同期させて発音してみた。数度やって、疲れた。なんで俺はこんな何回も見たDVDなんか見てるんだ?やり場のない怒りは、脳内で環境と化した登場人物たちに向くことはなく、ただ自分のなかの焦燥感に変換されただけだった。布団のあたたかさがじれったい。だが、僕はもっとそれにくるまった。露出した足に布団をたぐりよせ…


 どうやら、眠っていたようだ。何分ぐらい寝たのかな?画面を見ると、クエンティンがいないぐらいなので、そんなに眠っていたわけじゃないだろう。佳境ってやつか。見すぎてなんとも思わないけれど。焦燥感はまだ残っている。腕の付け根あたりがうずうずしているのがわかる。動悸を感じれば感じるほどそれは早くなっていく。生きているのは面倒だ。僕みたいな馬鹿はうごかないほうがいいんだ。そう、ちょっと前までのワースのように。この売り手市場で、内定が出ないのは僕が馬鹿だっていう証明じゃないか。そう誰かも言ってたのを聞いた。バイト先だったかな?…それからのバイトは全部ブチった。電話も無視。だいたい、今の時間に動いたって何にもできないだろう?あたりを見る。夜だ。もうそろそろDVDも終わる時間だな。
 ふと足元で、何かが青色に光るのを見た。なんだろ?
 携帯が落ちていた。これってことは。拾い上げて、ボタンを押す。メールが来ていた。サイレントにしてたんだな。
 どうせリクナビか、マイナビか、フルキャストだろう。
 そう思ってメールを開く。


 岡山の、彼女からだった。


 そのメールの内容はよく覚えていない。ちょっと前のことなのに。ただ、東京に出るときに絶対連絡します!って内容と、ハートマークの絵文字がふたつ入っていたことは覚えている。あと、もしかしたらGW明けに本社面接が入るかも、って書いていてくれたのも覚えてる。なんとなく、年甲斐もなく嬉しくなった。もう充分に僕は諦めていた。今までのことすらラッキーだったと、本当に諦めていたのだ。それが、こんな形で、彼女が、僕に、返信してくれるなんて。何故か涙が出そうだった。馬鹿みたいだってことはわかってる。だけど、胸が一杯になって、ありがとうって気持ちすらわいてきた。GW明け、か。どきどきする。わくわくもする。テレビの画面をふっと見た。ワースがレブンの手を握ったところだった。ワースが立ち上がろうとするシーンだ。手を、握ったんだ。死ぬな。死ぬな。何度も見ている映画のシーンなのに、記憶が出るのが一瞬遅れた。その一瞬ののち、あのシーンが、あの顔が、この液晶画面いっぱいに…。僕は、目を瞑っていた。はじめてのことだった。今は、ワースには殺されて欲しくはなかった。そう、今は。レブンにも、殺されて欲しくはなかった。ちらっと、やる夫のように、片目をうっすらと開いたとき、写っていたのは


 カザンの、そう、脱出のシーン。
 光り輝いている世界に。そして美しい世界に。


 嫌いだったこのラストが、今は、ちょっとだけ、わかるような気がするなぁ、と思えた。理解なんかじゃなかった。同意の写像に近いものだった。
だけど。だけど。僕は少しだけ今日は思う。どんな人間でも、どんな馬鹿でも、一歩を踏みしめて歩きだすことは、このようなものなのかもしれない。
 神々しい光に満ちて、まだ見ぬ未来が待っているような。


 気がつけば僕は親しんだ布団から這い出て、メールの返信を頭の中で妄想しながら、パソコンの前に座ってGW明けに着ていく服を探している。今着れるのはボロボロの茶色いパーカしかないから、それじゃ不釣合いだろう。まだ見ぬ未来ってやつには。

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