乞食と唾

 朝起きると空気がすげぇ酒臭くて、これが自分の息だと気付くまでには少しばかりの時間を要した。あたまがくらくらする/昨日飲みすぎた/ぐらついて灰皿を踏み付けた。畳がおれの肺のように真っ黒になった。
先週から気管支の調子が悪くて、満足に眠れない。その過程での昨日の酒/不意打ち。悪酔い、泥酔。あいつは無事帰っただろうか。喉の奥が乾いてひび割れている。出ない吐泥をおええと吐きながら起き上がり、朝食の準備をする。
幸い、まだ出るまでには時間があったので、コーヒーを入れることにした。冷凍庫から豆を取り出して挽く。古臭い手回しのミルから豆の甘い匂いが立ち上る。その香りを楽しむ……ことが今日はどうにもできず、僕はまた嘔吐した。だが、ひどい臭いの胃液以外何も出ない。そのまま、二、三度咳込んだ。涙目になりながら、おれはミルを回すのをやめた。

 椅子に座り、ぜいぜいという呼吸を落ち着けているとき、ふと、昨日見た、浮浪者の中年男を思い出した。飲みすぎたあとの帰り道で見た彼だ。彼は、段ボールを体に巻き付け、冬の気温のまだ抜けぬ四月の寒夜を乗り切ろうとしていた。日に焼けた野卑な顔、垢のこびりついた首筋、黄色く変色した歯茎。髪の毛と同様、縺れてびりびりに破けた煤だらけの服で、公園のベンチに寝転がっていた。
おれは、ただただ公園でぼけっとタバコを酔い覚ましに吸いたかっただけだったので、彼が隣のベンチを占領していたことに腹を立ててはいたが、なんというか、そんなに彼のことを気にしていたわけではなかった。同僚はどこかいらいらしていたようで、幾度か彼に卑しい言葉を吐いた。彼は、気にもとめず……いや、実際は留めていたのかもしれないが、ごろりと上を向いて、目を瞑っていただけだった。僕もすこしづついらいらしはじめた。じぃっと、彼の段ボールの家をおれは睨んだ。その、粗末な小屋とも呼べぬ代物から、その浮浪者が、どこかで見たことのある本を取り出すまでは。

 ぐらつく記憶の底にこびりついたその本は、大学時代おれが熱心に読んでいた本で、無限に関してのやつ、カントールの超限集合論だったように思う。おれはあのころ数理論理学を必死になって学ぼうとしていて、――なにかがそこから得られるんじゃないか、そこから得られた知見が僕の人生にきっちりと食い込んでくれるんじゃないか、とかそんなことを考えていた。上手くいえないんだが、この不確定で不健全なこの世界のシステムを統べるルールがあれば、そしてそれを理解すれば、人生の羅針盤を得られるんじゃないか、とかいった子供じみた思いだった。そして、たぶんそれは幻想だった。なんだかんだ言いながらおれ達は皆人生のどこかのフェイズで普通に就職して、普通に仕事して毎日を送る。ただそんだけなんだ。その毎日は何も変わりはしないし、皆と違う生活を送っているわけでもない。

 とにかく、その乞食は彼の粗末な、ふやけた段ボールの家からカントールの本を取り出したんだ。ひどく大事そうにそれを抱えて――本は、幾度もそうやって取り出されたようで、角が円くなり、ハードカバーがぼろぼろになっていたが――公園の仄暗い電灯を頼りに読み出した。おれの酔っ払った目は彼に釘付けになったのを覚えている。段ボールの中の暗がりに目を凝らせば、そこにはいくつものハードカバーが転がっていた。洋書もいくつかあった。ラッセルとホワイトヘッドなんかのあの分厚い本が見えたような気もする。同僚はやっぱりひどく酔っていたので、ぐだぐだと軽蔑の言葉を乞食のおっさんに吐いていた。だが、俺にはもうそんな言葉は耳に入らなかった。

 おっさんは、熱中して何度も何度もページを戻りながら、カントールを読んでいた。最初、おれにはなんだかこのおっさんが哀れに思えてならなかった。このおっさんはどこかで失敗したんだろうか。それとも、これがあのポスドクとか言うやつの末路か。社会の需要から切り捨てられたおっさんの姿か。そう思った。幾度か同僚がおれに同意を求めてきたので適当におれは頷いてやった。社会の歯車に成りえなかった男の姿はどこか哀れで、おれは次第にいらいらいらいらして、急にこの乞食のおっさんの顔に唾を吐きかけたい気持ちになった。

 だが、その時だ。そう、そう思った瞬間だったと思う。おっさんに唾を吐いた瞬間を妄想したときに、おれは気づいた。おれは、おれは、いつのまに、唾を吐きかける側になったんだろう? おれは、今まで、思い返せば、唾を吐きかけられる側にいることが多かった。少なくとも、誰か見も知らぬ他人に評価され肯定され否定された挙句唾を吐かれることも可能な位置におれはいた。学生の間は言うに及ばず、就職活動、就職しても人事に。唾を吐いた時点でおれの負けは決定していたようなものだったじゃないか。そのおれが、今、この乞食のおっさんに唾を吐こうとしている? 少なくとも、あのとき、おれにはそれが可能だった。だれかがだれかに唾を吐くことができる、これはいったいどういうことなんだろう? 

 結局、おれは、途端にばからしくなり、テンションが異常になっていた同僚をなだめて帰った。同僚はなにか殴るものが欲しかっただけなんだと思う。帰りに電信柱をがつんと殴って右拳から血を流していた。そこからは、あまり記憶がなくて、どうやって帰ったかも定かではなくて、気が付いたら布団の中だった。


 本棚近くの床に読んだこともない本がいくつも溜まっていた。今日帰ったらまずそれから読んでいくか、そう決めた。