『細切れのお笑い』が示すもの

――では、つまらない番組は。
横澤 どの番組が、ではなく傾向として2点不満がある。1つは似たような番組が
多すぎる。もう1つはお笑いを細切れに扱い過ぎている。1点目は、視聴率が高い他局
番組を安易に真似しているということ。自分たちが番組をつくっていた時は、いかに
他人と違うことをやるか、少しでも違う点を出したい、とやってきた。とても大変だし、
当たるかどうかバクチみたいな所もある訳だけど、そうした苦労をするエネルギーが
欠けている気もする。
痛いニュース「お笑い」つまらなくなったワケ

 非常に的確。
 実際、僕も同じようなスタンスでテレビを見ている。やすきよがいた時代のお笑いは凄かった*1。それに、僕は自分が関西に住んでいたことは、まだその細切れウェイブから逃れることができた、という点でラッキーだったとも思っている。だが、この評者には少し欠けている視点がある。それは、
 お笑い――ひいてはテレビのコマギレ化は、この時代の要請だという視点である。
 コマギレのお笑いは、誰にもコピー可能である。そして、誰にも、いかなる状況においても、いかなるバックグラウンドをもつ相手に対しても行使可能なものなのである。だからこそ、この時代が要求したものだったのだ。

エッシャーの騙し絵とうんこの絵

 「今までのお笑い」は芸であったことは、たぶん皆の共通の認識だと思う。事実、お笑いは、古来から、芸術の一派であった。能・狂言にしろ、コメディア・デラルテにしろ、洋の東西を問わずして、「お笑い」は、一種の芸であったのだ。退屈な日常を打破する風刺は、決して日常に染まっていてはいけなかったためだ。そして、芸とは、綿々と歴史を通じて紡がれねばならないものであり、また紡ぐには様々なコストのかかるものであった。また、その芸を理解する際にも、さまざまな言語化されていないルールを理解しておく必要があった:見るほうにも、演じるほうにも、両方に労力などのコストを要求するものであった。
 たぶん、戦後のお笑いもこのルールを踏襲したものであったと思う。チャップリンとメイエルホリドとエンタツアチャコを同列に並べちゃいかんと思うし、サタデー・ナイト・ライブと上方お笑い大賞もしくはM-1グランプリを同列に並べちゃいかんとも思うが、たぶんそのどれもは観客にも演者と同じ論理セットの共有を求めたという点で同じだと思う。
 そして、これらのお笑いは、個人的にはその論理セットを肯定しつつ否定するバランス感覚に柱を据えていたんだと思う。一種の、言語的なエッシャーの騙し絵だよ。何度も言うけどそれこそ、芸術家の天賦の才能がなければ無理な芸当だよね。

エッシャーの騙し絵

 あと基本的なボケとツッコミにしても天才的なスキルが必要だと思う。地味に。

 で、それに対して、昨今のお笑いはどうなっているかというと、レッドカーペットとか、エンタのかみさまとか見ればわかるように、ゲッツの人とか、テツ&トモとか、タカアンドトシとか、レギュラーとか、DAIGOとか、ひどくインテンシブなお笑いなのである。なんていうか、エッシャーの騙し絵に対して、福笑い的な、ちっちゃい子がうんこの絵を見てゲラゲラ笑うような、瞬間的な笑いなのである(うんこっていったけど、今のお笑いがうんことか言うつもりは毛頭ないのであしからず)。欧米か!とか、なんでだろうーとか、あるある探検隊!とか、ワイングラスチーンとか、なんていうか、芸としてのナリよりも、もう、ひどく単純な一発出オチなのである*2

有名なビル

お笑いが取り巻かれている現状、共通項としての今のお笑い

 僕は、ここでうんこがキモイとか、うんこがダメとか、そういうことを言いたいわけじゃない。今のお笑いがうんこって言いたいわけでもない。ただ、現状が変化したんだよ、ってことが言いたかったのである。
 考えてみて欲しい。僕らを取り巻く状況が、いかにここ十年で変化したか。インターネットにしても、経済活動にしても、我々の生活はどうなったか。だいたいこんなチンケなブログを見てるようなひとには、インターネットの威力はよくご存知のことだと思われるけれど、それ以外でも、数十年前には、僕ら日本の内部で自給自足で飯食ってたんです。それが、いつのまにやら、中国やらブラジルやらアメリカやら、そういったところからの輸入なしには僕らの生活すら危うい時代になった。危ういだけじゃなく、それが普通のこととなって、また、そういったところからの輸入が新たな価値判断と、効用を生みまくったのです。だいたいこのブログだって、奈良の片田舎から書いている。それが、アナタへ届いているんだ。こんな時代なんです。
 こんな時代だからこそ、学校で、大学で、職場で、サークルで、オフ会で、街中で、すれ違う人たちが同じ価値観のセットを持ってるなんてことは、ありえない。東京なんかいざ知らず、僕の住んでる奈良の新大宮ってチンケな田舎の歓楽街においても、隣人はフィリピン人であり、インド人で、日本人だ。俺のマンションの下にはフィリピンパブがあった。そしてそのマネージャーは僕の親友の一人だ。その時代の上で、テレビを通じて、全日本に同じ「お笑い」を放送してるってことは、どれだけの無理があるのかは言わずもがなだ。
 だからこそ、ある種の価値観の共有を条件とした、芸としてのお笑いは終焉を迎えた。何故か? 見てる人の母集団が変わったからだ。理解はできないものなんだ。バヌアツの人たちの価値観は、バヌアツの人たちの言葉をもってしか理解できない。同じように、人間は、自分の持ってる価値判断基準の中でしか、お笑いを評価できないのだ。ちりとてちんとか芋たこなんきんとか見てた人は、あの綿密に練り上げられた面白さに度肝を抜かれたと思うが、あの視聴率は、史上最低だった。それなんかよりも、今回の「瞳」のほうがよっぽど視聴率とれるんだと思う。何故か? ストーリーが単純で、練られていないからだ。それは決して悪いことなんかじゃなくて、つまり、誰でも、いつ見ても、すんなり理解できるってことなんだ。朝にはぴったり。
 まさに、レビストロースの言うところの野性の論理なんだと思う。芸としてのお笑いは、たぶん、断絶された各文化の中で栽培された論理だったんだ。それに対して、今の瞬間的なお笑いは、皆の共通項であり……まさに、「野性の論理」なんだと思う。実際、今のお笑いは、瞬間的なものであるが故に、日本語の理解ぐらいしか条件を必要としていない。だからこそ、野球の外人選手がお笑いを引用してウケをとったり、前述のフィリピン人の友人までもがうっとうしいまでにお笑いを引用してくるんだろう。ま、外人にも理解できるお笑いなんだ、ってことなんだ。たぶん、そんな人、あなたのまわりにもひとりやふたり、いるんじゃないかな。

まとめ

名前: バロ(京都府) 投稿日:2008/06/25(水) 10:37:02.11 ID:ybGHSa4s0
時代が変わっただけ。

3 名前: ハッシュマ・ダー(埼玉県) 投稿日:2008/06/25(水) 10:37:39.08 ID:/g7TUeX70
エンタ芸人が一掃されればいいだけ

10 名前: チチ(愛媛県) 投稿日:2008/06/25(水) 10:38:36.49 ID:vLzKjloN0
一発ギャグみたいなのばっかり
女と子供向け

11 名前: ブルマ(東京都) 投稿日:2008/06/25(水) 10:38:53.07 ID:7s0lTdDv0
芸人が「俺かっこいい」とか思ってる

12 名前: バカガラス(埼玉県)[sage] 投稿日:2008/06/25(水) 10:39:06.98 id:PmlGQ3BF0
芸が育ってないのに露出しすぎだからすぐ底が見えちゃうんだろ。

15 名前: モーネル秋田(石川県) 投稿日:2008/06/25(水) 10:39:43.87 ID:lurom92x0
TV局が能無し

22 名前: イレーザ(愛媛県)[sage] 投稿日:2008/06/25(水) 10:40:34.39 ID:TuGWMn3r0
元からつまらない

24 名前: アミック(四国地方) 投稿日:2008/06/25(水) 10:40:50.48 id:kYY91rEr0
マジレスするとあるあるネタしかできない芸人が多すぎる

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1141788.html

まとめると、決してこのテレビのコマギレ化は芸人がつまらないとかそういったことじゃなくて、日本にいる人の構造や、人口構成が変わったために、お笑いは共通項を目指すしかできなかったんだよ、っていう暴論でした。おわり。

*1:youtubeでも貼れたらよかったろうが、今探してみたところ見つからなかった。一度見てみたら、たぶん、その不変であり普遍のパワーと勢いを理解することは誰にも容易だと思う

*2:いやそれはそれで面白いんですよ