練習 2 私の○○さん

 風呂に入ったまま、眠ってしまっていたようだ。湯は、もうぬるくなってしまっていた。指の皮がふやけてしまっている。湯で顔をこすり、唸りながら浴槽のへりにあごをのせ、細い目を開けると、そこに、黒い靄*1のようなものが見えた。湯気の見間違いかと思い、目をこすってもその半透明のかたまりは消えようとはしない。それどころか、ぐるぐるとうずを巻いて自己を主張していた。驚いたが、その黒い靄は、どうやら私を傷つける意図もないようなので、私は黙って風呂から上がり、身体を洗って、外へ出た。もしかしたら私は疲れているのかもしれない。
 バスタオルを身体に巻きつけ、鏡の前でぼけっと立っていると、いろんなことが思い出される。一ヶ月前に振られた彼女のことや、その彼女とよろしくやっているらしい以前の友人のこと。もう考えても仕方のないことなのはわかっている。気分転換に煙草を吸おうと部屋に足を向けた瞬間、ついてきていた黒い靄の、形が微妙に変化していたのに気づいた。本格的に疲れが溜まってるな。情けなさを笑い飛ばし、私はベッドに向かった。


 目覚ましが鳴った。ベッドから起きあがり、眠い目をこすってあくびをひねりだしながら、大学に行く準備をした。今日は一限目から講義がある。食パンをトースターにつっこみ、メールチェックをしようと端末の電源を入れたそのとき、足元の黒い靄に目が留まった。もう、こいつには気に留めないことにして、いつものようにメールを確認し、RSSリーダに目を通す。チン、と音がした。トーストが焼きあがったようだ。北京オリンピック関連のフィードが目立つ。八百長がまたあったのか。どうでもいいことだと思いながらも少し怒りが沸いた。トーストを取りに行こうと、立ち上がろうとしたら、また靄の形が変化している。今度ははっきりとわかる。さっき見たスピードスケートの選手だ。彼女の顔が靄の表面に浮かび上がって、見つめているうちに消えた。靄はまた、昨日のようにうずをぐるぐる巻き始め、僕はしばしそいつを見つめて、ふと思い出したように服を着替え、大学へ向かった。トーストのことは忘れたまま。


 電車の中にも靄はついてきた。それは他の人には見えないらしかった。誰も気にする様子もなく、車内に満杯のスーツ族を抱えて、電車は通常通りに走り出す。当の靄は器用に人を避け、形を変えたり、いくつかのうずに分散したりして、私のそばについてきた。私が大学に着いても、それは変わらなかった。講義中にも、空席の上で勢いよくうずを巻いていた。ときおり、形が変化する。顔が浮かび上がり、叫び声を出すんじゃないかと思える形相をしていたこともあった。が、見つめていればまたすぐに消える。友達も、その黒いかたまりには気づいてもいないようだった。私は完全に精神病だな。そう思ったが、精神科に行くほどの時間も、気概もなかったので、行かなかった。


 三日が過ぎても、黒いうずまきは消えなかった。私も、もうそいつを気にしなくなっていた。そんな折、町を歩いている前の彼女とばったり出くわした。出くわした、というか目視したに近い。研究室からの帰り道、遠くから歩いてくる彼女を見かけて、私はビルの陰に隠れた。気づかれないように煙草に火をつけて、様子を伺った。あいつと歩いている。妙な切なさと、自分を謀って寝取った友人への怒りが私のなかに文字通り渦巻いた。彼らは、二つ前の交差点で右に折れ、繁華街へと向かっていった。馬鹿らしい。自分でもそう思う。何をしてるんだ、俺は?あたまの中がぐるぐる渦を巻く。たばこの火は、フィルターにまで及び、もう消えてしまっていた。長い灰を落とし、吸殻を踏みつけ、もう一本、煙草をパックから取り出して火をつける。そのとき、黒いうずまきの表面には、紛れもなく、その友人の顔が浮かんでいた。その顔が、横に浮かんだ彼女の顔にキスをしようとした…ところで僕はそのかたまりを振り払い、もやをかき消した。


 部屋のベッドに座り、ずきんずきん痛む頭を抱えていた。どうやって家まで帰ったのか、覚えてはいない。夢の中のようだった。もう一ヶ月前のことだぜ。そんな思いがよぎる。恥ずかしさが胸を余計に締め付ける。そんなに恋愛経験が無かった私にとって、彼は、最も頼れる友人だった。彼女の誕生日に、何を買ったらいいかわからなかった僕は、彼と一緒に繁華街を回ってプレゼントを見繕った。喜んでくれた彼女の顔。そういう思い出の裏で、彼が何をしていたかはわからない。気づけば、私は彼女のプライバシーを人に言い回り、彼女を鬱にさせたことになっていた。居酒屋で彼に尋ねられたこと、相談していたこと:彼女の昔のリストカット傷と虐待の話が、彼女からの最後の電話で槍玉に挙げられ、そんなことを言いふらすのは最低だと罵られて、私達の関係は終わった。彼を慕っていた自分が馬鹿だったのだ、そう思おうとしたが、海の底の濃厚な黒泥のような気分はなかなか変わらない。
 コーヒーを入れよう。美味しいコーヒーですっきりしよう。そう思って、立ち上がった。コンロに向かったその時、やはりその黒いかたまりが、ついてきていたのを私は見た。表面に、彼らの顔を彫り付けながら。いや、浮かんでいたというべきか。その靄はすこしづつ形を変化させ、膨張してゆく。まるで何かの形をとろうとしているようにすら思えた。突起が生え、手のひらが見え、ニタリと笑う顔が浮かんでは渦に飲み込まれて溶け、そのカタマリは徐々に人のような形を取り始めた。表面にさまざまな顔が浮かんでは違うところへ流れていく。そのかたまりは、その変化の中で徐々に肥大化してゆき、黒い人形のようになり…最終的に彼の顔を人間の顔にあたる部分に流し着けた。私はこいつの正体が少しづつわかりはじめていた。彼は、その黒い靄だった物体は、依然として流体状の表面にさまざまな顔がうかぶものの、私のイメージどおりの彼の姿に変化し、にたり、と笑った。肩には彼女の顔が人面疽のように張り付いていた。そして、その高い身長で、ぎょろりと目を動かして私を見下し、何か、話そうとしているように見えた。
 私はやかんを暖めていた火を消し、そいつの顔をじっと見つめ、決して他者とは関係のない切なさで、胸が一杯になってゆくのを感じながら、その話を聞いた。彼は私を罵った。丁度、私が思い描いていたように。それを聞き終わると、彼は、私に右手をすっ、と差し出した。私も、同じように右手を出した。そのときには、もうこいつの正体がはっきりとわかっていた。それに、少し、混沌とした自分の気持ちが晴れたような気持ちがしたのだ。彼は少し私の行動にひるんだようだったが、それも私のイメージどおりだ。私はすこし笑った。彼が、もう一度手を伸ばし、私の手に触れた、その瞬間、彼は、突然音も無く溶けていき、顔や突起の数々が渦に流されるように中心に巻き戻され、小さな黒く円い渦の群れへと瓦解していった。あとには、ひとつだけ小さな黒い靄が渦を巻いていた…が、それもそのうちに、ぽん、と音を立てるかのように消滅した。


 その渦は消えたわけではない。私は今でもそう思う。むしろ、私の中で、今でもぐるぐると渦巻いているのだろう。その後も彼女が楽しそうに元友人と歩いている姿をたまに見かけることはあった。だが、それを見るたびにどす黒い気持ちを得ることは、もう、無くなった。あの黒い半透明の塊は、僕の中に渦巻く汚泥のような重い空気を支配しつつ、今も私のいつか壊れそうな精神の健康を補完してくれているのだろうと思う。さよなら、そしてまたいつか。バイバイ、私の悪意さん。

*1:もや。