雨よりももっと 3

 雨よりももっと 1

 雨よりももっと 2


石上の葬儀から一週間が過ぎた。
その間に、学校までの川沿いの道を薄紅色に彩っていた桜にも徐々に緑の葉が混じり、生命力に溢れかえったその姿をこれでもかと誇示している。ちょうどその木々の緑葉が、可憐に色づいた、しかし同時に頼りなげでもあったあまたの花弁を押しのけてゆくように、僕の生活する範囲における石上の存在感も、徐々に増大するエントロピーにかき消され、今では一部の物好きしか、生真面目な女以外には彼女の名を口にする者はいなくなっていた。少しの違和感は残るが、案外こんなものなのかもしれない。そう思った。もともと休みがちだった彼女の机からは生気は猫の毛ほども感じられず、三日間は置かれていたであろう弔いの花瓶も既に洗うものはいなくなり、ささっていた一輪の白花も今にもしおれようとしていた。
そんな昼休み。
朝の四つの授業はもう終わり、気分的には本日の試合も終盤に突入した格好だ。
――笑い声。
いつもと変わらないY談、漫談、他愛無い恋愛譚。高校二年になったばかりの僕らには、日々の流れは固定されたものと同様で、退屈なものでしかなく、僕もご多分にもれずその甘味を十分に享受している。
昼飯はもう早めに済ませた。
後半戦に備えるために、怠惰な春眠を僕もそろそろむさぼってやりませうか…
「おい」
――遮られた。眠ろうとしていた目をこする。あくび、それも大きな。
「どうした、やけに眠そうだな」
えらくうぜぇ。こいつかよ。よりによって、という思いが頭の中を瞬間めぐる。
「うるせぇ馬鹿」
こいつ――早川――は、あまり気持ちの良い男ではない。勘違いした頭髪、比較的低い身長、軽度の吃音、嘘吐きで単純。そこそこ端正な顔はしているが、生来の度外れた好奇心と、仕入れたゴシップで人にたかってくるその腐った性根で、ほぼ誰からの受けも良くはない男だ。だが、これでも十分に婉曲表現である。もっとも、初見は優しいので、騙される女は多いらしいが。
「アレ、聞いたか? 石上の話なんだが、」
これが物好きの好例。百年同じ話を繰り返していろ。――一応、合わせる。
「いや、聞いてないかもしれない。どうした?」
一歩引けばコイツは乗る。図に乗らせる。
「やはり変態の仕業らしいぜ。確定だ、確定。女子が、石上の遺体の傷を確認してたのはおまえも知ってるだろ、その中でな、ただの傷じゃなかったっつって言ってる奴がいるんだよ。…火村なんだけどな」
早川がクイっと目を流す。気づいたのか、嫌そうな顔を浮かべる女子。
「なんだと思う?」
「さぁ」
「噛み傷なんだってよ。他の奴が見たのはただのキスマークか、蚯蚓腫れみたいなやつだろ。だが、あいつが見たのはそうじゃない。噛み傷だ。しかも、その真ん中の肉がえぐり取られてたらしい」
早川も多少デリケートになったのか、耳打ちをするように僕に話した。
体勢をもどす。
「完全に変態の仕業だ。それ、食ったのかな…。どんだけ噛めば肉が千切れんだろうか。石上も可哀そうなこったな」
こいつに哀れまれる石上がもっと可哀想に思えた。しかし噛みあとか。少し考え込んだ。しばしのタイムラグの後、ニタニタと笑みを浮かべていた早川に気付く。
――下衆め。
ふと、視線を感じた。遠くの女子が数人、こちらを凝視していた。
見返すと、彼女らは目を慌てて逸らした。自分の不運を嘆く。だが、どうやら今までに嘆きすぎたようで、残り滓さえ出てはこなかった。気分を転換させる。
「嘘くせぇ。それに死んだ人間のことをぐだぐだ探り入れんな馬鹿、成仏できねぇだろ…。可哀想に」
早川は肩をすくめた。特にわざとらしく。
「可哀想!」
ピクリ、と僕の眉が勝手に動く。
「…おーやおや、お前さんの口からそんな言葉を聞くとは思わなかったよ」
早川が続ける。
「…この国の法律だって、充分にそのまま『法律』なんですぜ、兄さん。僕たちにも適応できる、な」
言い残し、僕の肩をぽん、と叩き、早川は座っていた机から飛び降りた。手をゆらりゆらりと振り、そのまま、扉へと向かってゆく。こちらを振り返りもせず。食堂にでもゆくのだろう。その後姿を見ながら、僕は、手に瞬間的に浮き出た脂汗を制服の下に拭きつけ、早川は俺のことを誰から聞いて、どこまで知ってんだろうか、と考えた。