人間とあくま プロローグ

目を瞑れば、いつも思い出す風景。


知らない街での期待。高揚感、…そして軽い不安。
その中に浸りながら、みなが今日の夜に向けて準備をしている。
腰で互いにくっついた、白い真珠のような肌をした双子の美しい女が楽しそうに、自らの奇麗な、緑と藍色の宝石をあしらった特注のドレスに付いた毛を丹念に取り、アイロンで襟元を伸ばしていた。これみよがしに髭を蓄えたでっぷりとした小男も、愛らしい自らの百獣の王のたてがみを檻ごしに撫でてやっており、我らが団長はすでに仕事用の濃い赤のコートを纏っており、黒い襟元の汚れをちらちら気にしながら、今日の台本と帳簿を交互に眺めて安楽椅子を軋ませながら揺らしている。
軽業師の男が周りを気にしながら、ブロンドの双子の側に腰を下ろす。聞いた話だが、彼は以前、双子に求愛しこっぴどく断られたらしかった。
ちらちらと未練がましく彼女達のほうを眺めている彼を横目で見ながら、中年の女と片腕の大きな男が水槽に水を入れ始めた。瞬間、空気が凛と張り詰める感覚があった。
水の汲み注がれる音は今日の公演が近づいたことを示す合図だった。
皆、夜の催しへの準備に没入していく。
少年も、自らの背丈に合わぬ大きな鏡の前に立ち、今日の服装を見に纏い、黒いフェルトの生地についた糸くずを入念にとりながら、昼に聞いて回ったこの街の物語を反芻していた。
ひぃ、ふぅ、みぃ。民話に登場する怪物の数を指折り数えて、今日のアタリを付ける。
皆が集中していくにつれ、テントの空気は、更に重々しくなっていった。

その緊張の中を、とてて、と走り回る少女が、ひとり。
彼女は地味な服を着ているが、若く、艶やかな肌は目にも美しい。テントの中に敷き詰められた赤い絨毯の上をよろめきながら、皆にミントの香りのするお茶を配っていた。軽業師、双子、団長、人魚女…と配り終え、少女は最後に少年の名を呼んだ。彼は大きな声でそれに答えた。少女はにこっと屈託なく笑い、おぼつかぬ足取りで声のほうに向かってくる。彼が押さえ込めぬ笑顔でちらと目をやった、少女の足元には段差が見えた。
少年は叫ぶ。「危ない!」
「あっ」
言うが早いか、足をとられ、少女はとてん、とすっ転んだ。
……それも熱いお茶を入れたお盆ごと。
「熱ッッ!」
少年は思わず口にする。お茶が首筋のマフラーから、腰にかけてひっかかった。一瞬ののち、予期せぬ大声に仕事の手を止め、はっと振り向いた皆の顔が、心配そうな目を向けている。少年は一瞬自分の白い襟元を見たが、すぐに少女に駆け寄った。
襟の染みなどどうでもよかった。
「大丈夫か?」
手を貸す。
「痛ったぁ…」
彼の手をとり、少女は立ち上がる。つぎはぎのスカートから覗く、クリームチーズのように白い彼女の膝小僧に赤い擦り傷が見えた。抱き起こした彼の肩にその手が触れた。


「あっ」
彼女はその指先で、濡れた服を感じて、どうやら事態を悟り、自らを恥じたようだった。視点の定まらぬ、美しい顔が一瞬にして朱色に染まる。彼女は盲目だった。
「ごめんっ」
「いいよ、気にしなくて」
「服、…よごれてない?」
「大丈夫」
「……熱かったよね」
彼女の白い奇麗な両手が、どこかいとおしそうに彼の顔を包む。彼女の手の平は洗い物でささくれていた。彼女は見えぬ瞳で彼をじぃっと見つめている。少女の目には少し涙が滲んでいるように見えた。少年はなんだか胸が熱くなり、どぎまぎしながら彼女の頭を撫でてやろうかとも考えたそのとき、笑い声とともに団長の声が聞こえた。
「ディー」
くるり、大柄な髭の団長は彼らのほうに椅子を向けた。
「茶をぶっ掛けたのに暖めてどうすんだ、坊主が茹で上がっちまうぜ!」
団長が、がははと笑い出す。仕事の手を緩め、ちらちらと見ていた皆も吹きだした。笑い声がテントにこだまする。ディーと呼ばれた少女は彼を包んでいた手を離し、後ろにさっと隠した。彼女の頬も、これまた真っ赤に燃え出した。彼らはどぎまぎしながら、……皆につられたのか、少しずつ笑いがこぼれてくる。張り詰めたものが解け、先ほど溜め込んでいた涙が一筋、彼女の頬から伝う。
「泣くなよ。……馬鹿」
少年はそういって、皆に見えぬように彼女の奇麗な茶色の髪を撫でた。
しかし、目ざとくそれを見つけた軽業師と玉乗りが口笛を吹く。
(見られた!)口笛を聞いた少年はボフッと顔が沸騰する思いがした。
「おい、スティーとプラチコ!茶化すんじゃねぇよ!」
少年はむきになって叫んだが、そのりんごのような頬と上ずった声ではどうやら火に油を注ぐだけにしかならなかったようで、鳴り止まぬ口笛の中、皆がどっと笑い出した。少女は、うぇぇんと声を上げて泣き出し、少年の胸に顔を埋めてきた。
彼は少し戸惑いながら、少女の背中をぎゅっと抱き、ぽんぽんと叩いてやった。
その少女の身体のぬくもりを、少年は今でも鮮明に覚えていた。

時代設定

中世っぽい世界。
人間ばっかり。まほうはほとんどなし。
商業が大陸の河川沿い、もしくは「中心海」の交易を通じた各地方の商人の開拓によって、かなり発達しており、
都市によってはなぜか剣よりも棍棒が好まれるぐらい、法体系がしっかりしてたりする。

主人公の設定画はこんなの